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2016年7月21日木曜日

読書メモ『パルランド 私のピアノ人生』7

読書メモ:『パルランド 私のピアノ人生』
(高橋アキ、2013年、春秋社)
高橋アキ公式サイト


PART 6 ピアノ・ルームの楽譜棚から

225
彼(ベートーヴェン)の作品をピアノの上に移すとき、それはごく自然に聴こえる。おそらく…ピアノという楽器そのもののために書いていることにもよるのだろう。
…それでいながら、音色はまるでシンフォニーのピアノ版とでもいったように実際には出せない音を想像させる。

227
ベートーヴェンは、…広く未来を含めた不特定の「人類」のために、普遍化しうる音楽を刻苦勉励して作曲し続けようとした。…
こうした彼の姿に後の人々が近代市民社会における芸術家の理想像を見いだした。そしてやがてそれを歪んだ技術至上主義へとさえ進めてしまった。…
音楽の世界における重苦しい、伝統をかさにきた権威主義。ゲルマン的精神主義。私はこれらの音楽世界の手かせ足かせからのがれ、現実との切り結びの中で、もっと自由に音楽を学び、考えてゆきたい…

…芸術に対する根本の考え方という点では、日本人の作品も含めて、西洋音楽はいまだにベートーヴェンの敷いたそのレールの上を走っているものが多いように私には思えて仕方ない。

228
…最近の演奏家たちのベートーヴェン解釈の変化はどうだろう。私たちが好むと好まざるとにかかわらず、彼らはベートーヴェンを見直し、新しい価値を発見しつつあるようだ。

231
…また、シューベルトの音楽の大きな特徴である一見平面的な流れの中の瞬間瞬間のきらめき - たとえば同じメロディーを1オクターブ上下に動かすことによって、または同じメロディーを長音階と短音階の間でさまよわせることによって、また経過的にくりひろげられる転調の微妙さによって得られるこうしたきらめきを生かすための即興的ともいえるような自発的意志。
このようなことが私に、音楽とは生きた運動体であると把握させ、究極的には音楽は演奏されるその瞬間に生命を与えられてゆくものだと実感させたのであろう。演奏する喜びというのは…聴く楽しみとは違って、筋肉=肉体が音楽と直接結びつくことによって起こるある種の官能的とも言えるような運動の喜びを含んでいるのである。このことは、いくら作品を知的に分析したところで、それだけでは絶対に感知できないことなのである。

232-233
たとえばここに一つの曲があるとする。…これこそその曲の演奏の決定版、まさにこの演奏スタイルこそ最良のもの、とされるものがいくつかあるとしよう。…人々はその曲を思い浮かべるとき、その特定の選ばれた演奏を心に流す。しだいにその演奏イコール作品となってかたく両者が結びつき、規範(判断・評価または行為などの拠るべき基準)として用いられるようになる。…

たとえてみれば、古典落語や歌舞伎に接するとき、そのすみずみまで…知りつくしているとする。…演者とそれこそ一体になったつもりで熱中し、そうすることによって自分の心の中に記憶を生き生きとよみがえらせるのが無上の楽しみ、ということもあるのだ…
これが”個人的な楽しみ”にとどまっている限りは問題はないのだが、”絶対にこれしかない”という固定観念に陥ったときには非常に危険になるのではないだろうか。

234
こうした固定観念で物事を見るのでなく、現代のピアノを使って自分に何ができるかということを自分の内部から見つけだすことの方が大事ではないだろうか。

243
ペダルの踏み方としては、この深さの変化の他にも、レガート・ペダル(切れ目なしに踏み替える)、レガーティッシモ(4分の1くらい替えて、あとは前の響きと混ぜ合わせる)、クレッシェンド(踏み替えるたびに徐々に深く踏んでゆく)のような踏み替えの技術。またアクセント(強く響かせたい音の頭に同じに深く踏み込む)、ヴィブラート(前の響きを次の音の中から徐々に消してゆくため)等々。これらは私が勝手につけた名前だけれども、ペダルも指先のタッチと同様に、曲想に応じて様々に変化させる研究の重要性を感じる。さしずめドビュッシーはその先駆的存在ではないだろうか。

245
私にとってドビュッシーは、ピアノという楽器から音響=詩をひきだすための耳を通しての訓練である。「ピアノに語るにまかせたい」とドビュッシーは言っていたそうである。ピアノを演奏する人間として興味のつきない課題である。

247
過去における、成功した音楽の歴史のみを信じる硬直した人たち。「音楽とはこうである。こうでなければならない」との固定観念に振り回されているあわれな人たちにとって、サティの音楽など退屈で我慢できない代物のようだ。



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