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2016年3月26日土曜日

記事No.777:ピアノ演奏の悩み〜音楽を奏でる指?

ブログ記事の原稿を入力しているとき、ふと見ると記事数が「777」になっていた。で「祝!777番記念♪」というタイトルで何か書こうかとも思ったのだが、内容を思いつかない…。

いろんな作曲家の「op.777」を並べてみるか?なんてことも思ったのだが、探してみると意外と少ない。見つかったのは、カール・ツェルニーの「24の五指の練習曲」(↓)くらい。




…ということで、もともと書きかけていた記事に戻ることにする。

最近、とくにフーガを練習していて感じたことだが、自分で弾いていても、音符を追いかけているだけで「自分が音楽を奏でている」という感覚がどうも薄いのだ。フーガのテーマが弾けてない、聴けてないということもあるだろうが、それだけではないような気がしている。


なぜか?と考えてふと思ったこと。

歌の場合は、音符を追っているという感覚ではなく、自然に「自分が歌っている」という感覚を持てるような気がする。それが、ピアノになるとなぜ同じような感覚を持てないのだろうか?

音楽をイメージしてそれをピアノで奏でているのではないから?

片方に、他人の演奏を聴いて覚えた音楽のイメージがあり、もう一方に、自分が楽譜を追いかけて鍵盤を押して出る(結果としての)音の連続がある。それがある程度似ていると、一応の「自己満足」はできる?


プロのピアニストが「特殊能力」を持っているという話はよく聞く。「音楽を聴いただけで、すぐに弾ける」「楽譜を見ただけで、音楽や運指のイメージが自然に出てくる」「飛行機に乗っているときに初めて見た曲(楽譜)を、到着してすぐに暗譜で弾いた」といった類の話だ。

これらを可能にしているベースには、「音楽(音)」と「楽譜」と「鍵盤+運指」のイメージが一致している、ということがあるのだろうと考えられる。究極のソルフェージュ能力と言えるかもしれない。


これほど高度なことは不可能だとしても、これに似たようなことが出来るようになれば、「自分が音楽を奏でている」感覚を持てるのではないか、とも思う。つまり、「ソルフェージュ」能力の欠如が、そういう感覚を持てない原因ということ?

言い方を変えると、メロディーなどの音楽をイメージする能力と、そのメロディーに対応する鍵盤のイメージを結びつける能力である。メロディーから鍵盤、鍵盤からメロディーの両方向…。


前に読んだ『バレンボイム音楽論』という本で、バレンボイムが新しい曲を練習して自分のものにする過程を語っているくだりがあった。

そこに、

「あたかも曲が私の演奏につれて作曲されていくかのように演奏を進めていく」

という印象的な表現があった。その当時はよく分からなかったのだが、いま考えると「自分が(自分の歌を)歌っている」という感覚に似ているのではないかと思う。



ピアニストの「特殊能力」やバレンボイムのような巨匠レベルの話はさておき、自分自身のことである。…と話のレベルは急降下する…(^^;)。

実は、「自分が音楽を奏でている」感覚の問題と関係ありそうなもう一つの課題もある。それは、いま取り組んでいる「レパートリー化」のことである。


1月に練習して「暗譜」した曲(バッハの平均律 Book2 第12番ヘ短調のプレリュード)を、レパートリーにする実験をしているのだ。つまり、毎日練習しなくても、弾きたいときにひょいと暗譜で弾けるようにならないか、という試行である。

毎日1〜2回ずつ弾いている間はよかったのだが、このところ1日置きに弾くようにしただけで、暗譜がところどころ抜けてしまうのだ。音楽のイメージはあるので、本当に自分のものになっていれば、数日弾かなくても大丈夫なはず…だったのだが…。

これも、「音楽(音)」と「楽譜」と「鍵盤+運指」のイメージが一致していないことが原因なのでは?と思うのだ。


いずれにしても、当面の課題は「ソルフェージュ」能力の強化…なのだろうと思う。とはいえ、面倒くさいし、しんどそうだし…。さてどうするか…。

「音を奏でる指」を持ちたい! 少なくとも、音のイメージと鍵盤のイメージとがもう少し近い感覚を、なんとかして持てないものか?

…と、頭が疲れてきたので、この続きはまた改めて考えて(妄想して?)みることにしよう。



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