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2015年3月27日金曜日

仲道郁代が語るドビュッシー

昨日に続いて、仲道郁代さんの『ピアニストはおもしろい』という本から。

今日は、ドビュッシーの曲を表現する方法論やヒントのようなものに関して、仲道さんご自身がいろんな人から受けた「ドビュッシーの啓示」について書いたあった箇所である。参考になる。





まず基本的なこととして、ドビュッシーの楽譜には細かな指示がたくさん書かれている。

〈いったんストップして、おもむろに動き出す〉とか〈遠くから〉とか〈煙ったように〉とか。これを読んだ上で音にしていくことが重要だという話。(でも、フランス語なんですよね…、しかも微妙なニュアンスを文学的に表現した…)


次に「音遣い」について。印象派の音楽というのは、一般的にはぼんやりしたイメージ、ペダルで音をぼかす・にじませるイメージがあるが、そうではないという話である。例えば、

音遣いはというと、意外なほどにドライなのである。ペダルも限られた箇所での限られた絶妙な使い方をする。…実はドビュッシーはペダルマークをあまりつけていない。

…のだそうだ。ただし、タッチは基礎練習のような「きちんと、しっかり弾く」ではなく、多様な「タッチのユニークさ」が必要とされる。

高校生時代に「指遣いの神様(?)」といわれるドレフュス先生から、それぞれの指の特性を活かす指遣いを教わったそうだ。指を変えることでいろんなニュアンスを表現する幅が広がる、ということ。


「印象派の絵画」についての考察から。「絵画でいえば、外の光、光の性質、特性を意識した技法」である。その絵は、遠くから見ると輪郭がはっきりしないものに見えるが、近づくと単なる線だったりする。ルノアールの女性の肌は、近くで見ると青、黄、白、赤の線でできている。モネの『睡蓮』も、ディテールははっきり細かく大胆に描かれている。

絵画では「空気を意識することによって光のプリズムが鮮明に浮き立つ」のだ。であれば、音楽では「空気の振動である音で、空気感を表現する」ことができるのではないか…。

「少しぼやけた印象は、バッハから脈々と続くしっかりとしたカデンツフォーム、和声進行を崩したことに起因するのではないか…。」「そして、使っている音の一つ一つは意外なほどリアルだ。」

つまり、和声進行に起因する「ぼやけた印象」はあるが、音自体は意外とドライであって、多様なニュアンスのタッチはあるにしても、決してぼやけた音ではない、ということのようだ。


それから、よく言われるように、フランス音楽はフランス語のように奏でられなければならない。「息は鼻から頭へかけて抜けていく上向きのイントネーション」であって、ドイツ語のように「息を深く下へ向かって吐き出しながら話すイントネーション」ではない。


ちょっと面白かったのは、アンヌ・ケフェレックさんとの連弾で、肌を触れるほど近くで一緒に弾くといろんなことが分かる(教わることができる)という話。

一音ごとの音を出すスピード(テンポのことではない、タッチのスピード)の違いの作り方。鍵盤と指の位置の関係、重さのかけ方の関係、手首の使い方、音を歌わせるときにすること、ペダルの上下動へのこだわり…


こういう一つ一つの積み重ねによって音楽(演奏)は作られていくのだなぁ、と妙に感心したのであった。なにか、またドビュッシーを弾きたくなってきた…。


またしても、少し長くなってしまった。シューマンの話も書きたかったのだが、「続きはまたあした」ということにしたい。



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