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2014年2月18日火曜日

「バレンボイム音楽論」:思考の自由と演奏および解釈

『バレンボイム音楽論』 読書メモ(5)

  ※目次・紹介は→本「バレンボイム音楽論」:紹介

【思考の自由と演奏および解釈】

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●抜き書き(数字はページ番号)

63
近代の西欧文明諸国では、自分が自由であると信じることはきわめて容易である。非常に多くの選択肢がある―どこで暮らすか、何を読むか、テレビやインターネットで何を見るか、選ぶことができる。けれどもじつは、この種の自由にたいしては、自分が何を望んでいるのか、はっきり自覚していることが必要であるこうした自覚なしには、私たちはこれらの欲望に振り回される奴隷であるにすぎず、自分自身の考えや行動を形成する力をもっているとはいえないのだ。

64
音楽においても同様に、作曲するにしても演奏するにしても、知性と感情は密接にかかわりあっている。

68
こんにちの科学技術や通信媒体の大きな進歩は、さまざまなかたちで、人びとのあいだにスローガンで満足しがちな傾向を生み出している。だが、こうしたスローガンは、それが表向きに主張する観念の貧弱な代用品であるにとどまらず、まさに逸脱でもある。
議論するには思考が必要であり、ある観念を発展させ表現するには、時間が必要なのである。

73
今の政治の世界では、近代的なのは外形だけである。科学技術のおかげでコミュニケーションはこれまでよりはるかに効率化された。だがこれは残念なことには、教育を受けてない人びとを不当に利用し、操作することにつながっている。

74
…作曲家はまず素材を提示し、そののちはじめてそれを変容させて、戦略的に曲を組み立てる。演奏家もまた同様に、曲の最初の音を演奏しようとするときには、内なる耳で曲の最後の音を聞くことができなければならない。そのために…戦術的ではなく戦略的なやり方で、受動的に反応するのではなく主体的に行動しながら、スコアの自分なりの物理的実現(physical realization)を生み出さなければならない。 (※演奏:interpretation)

75
…演奏者の中で作品の構造が、演奏中に知的な思考がもはや不要になるまで、じゅうぶんに内面化されていなければならない…。

最初の反応はもっぱら直観的なものであり、第一印象の産物である。
そのあと私は曲の分析へと進むことができる。曲を学び、曲について考え、…曲についてはるかに多くのことを理解するようになる。(最初の新鮮さはかなりの部分、失われているかもしれない)
…プロセスは、こんどは主として理性的なものへと変化し、この時点での私の主たる関心は曲の構造を理解することであり、これは曲の構造を表現するための必要条件である。
次の段階へと進むには素材をできるかぎり詳細に知ることが必要であり、これを知ることによって、最初の出会いをあらためて経験しなおすことが可能になる。ただしこんどはそこに、意識的なナイーヴさとでもいうようなものがともなっていて、そのおかげで、あたかも曲が私の演奏につれて作曲されていくかのように演奏を進めていくことができる。…

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●感想など

現代における「自由」(と感じられる状況)に対して、バレンボイムは明確に、それらは「選択肢」に過ぎず、本当の自由を得るには、自分が何を望んでいるかを自分で考え、自分自身の行動を自ら形作ることが必要だと言っている。

この章で一番印象的で、トップクラスの演奏家にしか書けない深い内容だと思ったのは、最後の抜き書き部分である。初めて演奏する曲にどのように取り組み、自分のものにしていくかというプロセスが簡潔に明確に述べられている。

最初の「直感・第一印象」から始まって、「分析」と構造への「理解」を深める理性的な過程、それを経た上でのある種の統合(最初の直感と詳細な曲の理解との)が最後に行われる。そして、「あたかも曲が私の演奏につれて作曲されていくかのように演奏を進めていくことができる」という境地に至る。

おそらく、浅いレベルでは普通のピアニストも行っているプロセスだとは思う。しかし、最終的に到る境地の高さが、直感や理解の強さや深さを思わせる。


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