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2014年2月16日日曜日

「バレンボイム音楽論」:音と思考(2/2)

『バレンボイム音楽論』 読書メモ(3)

  ※目次・紹介は→本「バレンボイム音楽論」:紹介

【音と思考】 その2

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●抜き書き(数字はページ番号)

28
直後にスビト・ピアノが待ち受けるベートーヴェンのクレッシェンドを演奏するときにもとめられているのは、音量を上げていって、とつぜん、音量を落とす能力だけではない。…
…音量の増大にかんしては、クレッシェンドが継続しているあいだじゅう、戦略的に少しずつ音量を増していくことが必要である。…クレッシェンドが最大になる地点からスビト・ピアノの音量が最小になる地点へと、だしぬけに移行できる能力が不可欠である。

 そしてまさにここで、勇気がもとめられる。…もっとも楽な道を選ぼうとするなら、クレッシェンドの終わりからスビト・ピアノへの移行を容易にするために、クレッシェンドをほんのわずか控えめにする必要があるからだ。勇気とは、この場合、もっとも困難な道を選ぶこと、つまり、スビト・ピアノへと唐突に移行した結果がどうなるかなどと考えずに、音量をそのまま上げつづけていくことである―いわば、崖っぷちまでどんどん歩いていって、最後の最後で歩みを止めるようなものである。音にかんして勇気とは、あえて予想に挑む気がまえと能力である。アルノルト・シェーンベルクが言ったように「中庸の道はローマに続かぬ唯一の道である」。…

29-30
音楽の演奏には必ずひとつの視点というものが必要である。…
演奏家が絶えずみずからに問いつづけなければならない三つの問いは、なぜ、どのように、なんのために、である。

32
音楽では、二つの声部は同時に会話し、どちらも心ゆくまで自分の主張を表現しながら、同時に相手にも耳をかたむけている。このことから、私たちは音楽について学ぶことが可能なだけではなく、音楽からも学べることがわかる―それは生涯にわたって続くプロセスである。

子どもたちにはリズムをつうじて秩序と規律を教えることができる。はじめて情熱というものを経験し、あらゆる規律意識を喪失する若者たちは、音楽をつうじて、いかにしてこの二つが共存するか理解することができる―音楽では、もっとも情熱的なフレーズでさえ、根底に必ず秩序の感覚がなければならない。つまり、人間にとっておそらくもっとも難しい課題―規律をもちながらも情熱を失わずに、自由でありながらも秩序を失わずにいかに生きるか学ぶこと―にたいする教訓が、音楽のどのフレーズにもはっきりとあらわれている。

33
ルバートに必要なわずかな修正によって、演奏者と聴き手の双方に、ルバートが続いているあいだにかぎってではあるが、客観的な時間を無視する能力が与えられる。

けっきょく、音楽においては、可聴性および透明性を決めるのは聴覚である。

34
歴史は、音楽同様、時間のなかで進展するものであるので、たったひとつのできごとが、私たちが未来に向かう筋道を変えるだけでなく、過去に対する私たちの見方をも変える可能性がある。こうしたことが音楽では、音楽の水平な進行にとつぜん、垂直な圧力がかかるときに生じ、音楽はそれまでと同じように続いていくことができなくなる。
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●感想など

音楽の演奏に関して「勇気」という言葉を聞くのは、たぶんこれが初めてである。

演奏技術の「戦略性」、クレッシェンドに使える時間を予測してその中で最大限まで音を増大して、そこで急激にスビト・ピアノである。これもすごいが、これを実現するには「勇気」が必要になる、ということ。

演奏には、必ずひとつの「視点」が必要だという観点も、なるほどと思う。また、「なぜ、どのように、なんのために」は、ピアノを弾くときにつねに意識すべきチェックポイントになる。

そして、「可聴性」(そのように聴こえること)と「透明性」(明快に構造が見えること)の重要性だけでなく、けっきょく音楽は「聴覚」であるという、きっぱりとした言い方には共感できる。

音楽から学ぶという姿勢は、この章でも健在である。

二つの声部(二人の人間)は自分の主張をしながらも、同時に相手に耳を傾けること。これは音楽でも人間社会でも同じ。

規律と情熱、自由と秩序のバランス、これも音楽の中で重要であるだけでなく、人間にとってもとても大事なことである。


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