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2014年1月9日木曜日

読書メモ:音楽を「考える」→"内なる音"

新書なのでページ数は多くないのだが、いろいろと考えさせられた本である。

読んだのは『音楽を「考える」』という本、茂木健一郎氏と江村哲二氏の対談である。とくに興味を惹かれたポイントだけあげてみる。(緑の字は引用)





1.「内なる音」に耳を澄ます

まず「耳を澄ます」という話題。外の、例えば一番遠くの音に耳を澄ますことから、たぶん一番大切な自分自身の「内なる音」に耳を澄ますこと、の重要性が語られる。とくに江村さんの次の発言は作曲という営みの一端を垣間見させてくれる。

音楽について自分の内なる音というのは、…外からの刺激に対してどう反応するかということ…。頭の中にあるもの、つまり私が小さいときから見たり聞いたりしたことというのが、ずっと長期記憶として培われていて、普段は意識をしてなくとも、何らかの外部刺激がポーンと入ってきたときに、自分の中にあるものがあふれ出てくるということです。(江村)


2.「現代音楽」はもはや「伝統芸能」

「現代音楽」というものがなかなか理解できない。だが、この「伝統芸能」という言い方、つまり技法が一人歩きしてしまっている、という説明はなるほどと思った。そして次のコメントにつながる。

現代の音楽が力を失っているのは、ある時代に確立されたものをそのままツールとして使って提示しているだけ、ということが原因にあるかもしれません。


さらに音楽だけではなく科学など他の分野においても、共通の問題が提示される。

素晴らしいものが生まれた時代・社会の「文脈(コンテキスト・環境)」がだんだんと色褪せていくにつれて、本来の「いい部分」が見失われる、ということであろう。「制度疲労」とも共通点がありそうである。

起源においては素晴らしかったものが堕落していくということが現代における一つの普遍的な問題としてあるらしい。


3.クラシック音楽とポピュラー音楽

対談者はこの違いにこだわっているわけではないのだが、面白いと思った。自分の中で「クラシック音楽の再定義」みたいなことが必要かもしれない。整理すると対談者の発言は次の二つ。

200年前のベートーヴェン等の楽譜を演奏しても、奏でられるのは「現在の音楽」である。30年前の「音源」を持ってきて、それを聴いて楽しむポップスとは明らかに基本的な構図が違う。

ポピュラーは大量生産大量消費の音楽の世界。データーベース(パターン化されたフレーズや和音進行など)を切り貼りすることで作曲できてしまう。つまり、コンピュータにも作れてしまう。

大胆に図式化しているとは思うが、面白い見方だと思う。そういえば、ポピュラー音楽では作曲家より演奏家(歌手)が表に出てくる。クラシックの演奏というのは、ポップスでいう「カバー」に当たるのかも?


もう一つ、日本(人)の「1%の壁」という話も興味深かったのだが、長くなりそうなので、次回の記事で書いてみたい。



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《本:音楽を「考える」→"1%の壁"》


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