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2015年6月22日月曜日

ドビュッシーの追求した音楽:「音楽のために」から

6月19日の記事に続いて、『音楽のために―ドビュッシー評論集』という本からの話題。今日は、ドビュッシーが音楽について語った言葉を拾いながら、どんな音楽を追求したのか考えてみたい。

なお、引用した文中の太字部分は、私がキーワードだと思ったものである。




ドビュッシーが評価した作曲家

ドビュッシーが高く評価した主な作曲家は、J.S.バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ラモーなど。このあたりについて述べた箇所をいくつか抜き出してみると面白く、参考になる。


バッハには、音楽というものがそっくり全部含まれていますが、バッハは和声学の方式を軽蔑していました、本当ですとも。そんなものよりも、音響の自由なたわむれのほうが、彼には大事だったのです。

バッハの音楽において、人を感動させるのは、旋律の性格ではなくて、旋律の曲線である。いや、そればかりか、数条の線が平行して動き、偶然に出会ったり、しめし合わせて出会ったりするとき、感動を呼び起こすことのほうが多い。

フランス音楽というものは、明快、エレガンス、単純で自然な朗唱、これにつきますよ。フランス音楽は、まず第一に人を楽しませることを心がけるのですね。クープラン、ラモー、あれが本当のフランス人というものですよ。グルックの野郎がすべてをぶちこわしたのです。…私はグルックと同じくらい我慢のならぬやつを、もう一人知っています。ヴァーグナーです。…

マスネ氏にとって、音楽というものがバッハ、ベートーヴェンの傾聴した「宇宙の声」ではけっしてなかったことである。

私はマスネを非常に好んでいますよ。マスネは音楽芸術というものの本当の役割をよく解しえた人です。


ヴァーグナーはもともと好きではないのでいいとして、クープランやラモーはあまり聴いたことがないので、そのうち聴いてみることにしようと思う。


ドビュッシーの作曲の秘密

ドビュッシーが直接に自身の「作曲の秘密」を述べているわけではないが、ヒントとなるような言葉はあちこちに見ることができる。下記のくだりなどは、ドビュッシーの和音・響きが自然から来ていることをはっきり示している。


作曲の秘密など、誰に知れましょう。海のざわめき、地平線の曲線、木の葉のあいだを吹きわたる風、小鳥の鋭い啼き声、そういうものがわれわれの心に、ひしめき合う印象を与えます。すると突然、こちらの都合などは少しも頓着なしに、そういう記憶の一つがわれわれのそとに拡がり、音楽言語となって表出するのですよ。


これに続いて、その「音楽言語」の中に自然の中から見つけた「和声」が含まれること、そしてそれは作曲技術で作り出すようなものではなく、「発見」するものであることを明快に述べている。


音楽言語というものは、それ自らのうちに独特の和声をそなえています。どんなに努力してみても、これ以上に正しい、またこれ以上にいつわりのない和声は、おそらく見つからないでしょう。ただ生まれつき音楽に向いている心だけが、最も美しい発見をかさねるのです。


そして、作曲家の多くが「音楽の書法・方式・技術」(作曲技法)を重視し過ぎていて、その結果、観念的な(音楽ではない)ものを作り出している、と批判する。


私の考えでは、今まで音楽はまちがった原理に立って安閑としていたんです。あまりにも「書く」ことに心がけすぎたのです。音楽を紙のために作っているのですよ。耳のために作られてこそ音楽なのに。

そんなものは音楽ではないのですよ。音楽なら、聞く人の耳にごく自然に、すっと入っていくはずです。抽象的な観念を、ややこしい展開の迷路のなかにさぐる必要などないはずです。


そして、一つの方法として「身のまわりにある無数の自然のざわめきを聞こう」と提案する。まるで、そのあとの「現代音楽」の不毛を予見しているようだ。


野外演奏会について

自然のざわめきの中から音楽を発見することとあわせて、ドビュッシーは演奏のあり方でも自然との協調を理想とするような言い方をしている。


野外音楽こそ、音楽の所有しているあらゆる力を結集するまたとない好機を音楽家に提供するもののように、私には思えるのだ。美しい空という天然の背景を確保し、落日というあの日ごとの夢幻劇を交響曲で注釈することができるのだから…

特に「野外」用に作られた音楽の可能性がひらけてくる。それは全体がごく大まかにできていて、合唱も器楽も大胆に振る舞い、外界の光の中で嬉々として戯れ、木立の上方をゆったりと旋回するような音楽になるだろう。コンサートホールのような密室の中では異様に聞こえるような和音の連続も、野外ではその真価をおそらく取り戻すだろう。…大気の流れ、木の葉の動き、花の香気の、神秘な協力が実現するだろう。


自然という環境の中にしっくりと収まって、自然のざわめきと協力するような「野外用音楽」とはどういうものを想像していたのだろう。通常の管弦楽を野外で演奏するもの(は現在でもいくつかあるようだが)とは、違うような気もする。


それにしても、「密室の中では異様に聞こえるような和音の連続」という言い方は気になる。例えば、いま練習している「ピアノのために」の〈サラバンド〉の和音は野外で弾くために作られているのだろうか?



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