ページ

2015年6月20日土曜日

読書メモ『音楽のために ー ドビュッシー評論集』

出典:『音楽のために―ドビュッシー評論集』
    杉本秀太郎 訳 白水社 1993年(原書 1971年)




【個人的読書メモ(抜き書き)】

22(ページ:以下略)
イザイ
バッハのト調Vnコンチェルト

バッハの音楽において、人を感動させるのは、旋律の性格ではなくて、旋律の曲線である。いや、そればかりか、数条の線が平行して動き、偶然に出会ったり、しめし合わせて出会ったりするとき、感動を呼び起こすことのほうが多い。

オペラがやかましく泣きわめかせようと苦心する、あのこましゃくれた、哀れな叫び声よりもはるかに真実なものが、ここにはある。とりわけ、音楽がここではそのもてる高貴な性格をあますところなく保持している。

40
美の正銘の印象というものは、沈黙以外のいかなる結果ももちえまいということを、しっかとお心得あるべきだよ。…ね、落日というあの毎日くり返される夢幻劇を見ているとき、あなたは拍手などして喜びますかね。

41
ベートーヴェンのソナタは、ピアノで弾くには実に具合が悪い。ことに後期のソナタは、…オーケストラの焼き直しだ。第三の手がないので、どうにもならないことがよくある。

42
音楽は、散りぢりに散らばっている力の総計だ。これを使って思弁的な歌などを作るやつがいる。私にはそんなものよりもエジプトの羊飼いの笛の音色のほうがましだ。羊飼いは風景に力を合わせ、君たち音楽家どもの和声学概説書などには全然書かれていないようなハーモニーを聴いている。音楽家連中は、如才のない手で書かれた音楽しか聴こうとしない。自然の中に書きこまれている音楽を全然聴こうとしない。朝日の昇るところを見ているほうが『田園交響曲』を聴くよりも、ずっとためになる。

50
…マスネ氏にとって、音楽というものがバッハ、ベートーヴェンの傾聴した「宇宙の声」ではけっしてなかったことである。

54なぜ『ペレアス』を作曲したか 覚書き
数年間、バイロイトにかよったのち、私はヴァーグナー方式というものに疑問を覚え始めました。…彼はいろんな方式をかき集めるのがうまかった人です。…ヴァーグナーの天才を否定するというわけではありませんが、彼はあの時代の音楽に終止符を打ったのです。…そんなわけで、ヴァーグナーのあとに付くということではなくてヴァーグナー以後というものを模索しなければならなかったのです。

57
バッハには、音楽というものがそっくり全部含まれていますが、バッハは和声学の方式を軽蔑していました、本当ですとも。そんなものよりも、音響の自由なたわむれのほうが、彼には大事だったのです。平行し、交錯する音の曲線は、思いがけない開花を用意していました。そういう花は、バッハの書き残したおびただしい楽譜のどんなページにも、色褪せることのない美しい飾りを与えているのです。

それは「惚れぼれするようなアラベスク」が花盛りという時代でした。だから音楽は、自然界の運行のうちにはっきり書き込まれているところの美の法則に、自分も参画していました。これに対して現代は「鍍金(メッキ)様式」が幅を利かせていると言えそうです。

67野外コンサートについて
自然の装飾にもっとうまく溶け合うような、もっと新しい祭典のようなものを空想するほうが、私の気持ちにはしっくりくる。

特に「野外」用に作られた音楽の可能性がひらけてくる。それは全体がごく大まかにできていて、合唱も器楽も大胆に振る舞い、外界の光の中で嬉々として戯れ、木立の上方をゆったりと旋回するような音楽になるだろう。コンサートホールのような密室の中では異様に聞こえるような和音の連続も、野外ではその真価をおそらく取り戻すだろう。
…大気の流れ、木の葉の動き、花の香気の、神秘な協力が実現するだろう。

115
野外音楽こそ、音楽の所有しているあらゆる力を結集するまたとない好機を音楽家に提供するもののように、私には思えるのだ。美しい空という天然の背景を確保し、落日というあの日ごとの夢幻劇を交響曲で注釈することができるのだから、芸術と自然とを緊密に結びつけている諸関係によく気付いている人なら、魅力的な企画として、野外音楽を受け取るにちがいない。

145
ただ私が言いたいのは、いつでも同じ曲ばかり演奏しているのは、おそらく間違っているということである。そんなことをしていると、正直一途な人は、音楽というものがつい昨日生まれたみたいに思いかねない。音楽には一つの「過去」があるのだ。その過去の灰をかき立てることが大切だろう。

173
われわれの時代を代表するピアノ・ソナタはほとんどただ一曲、ポール・デュカのピアノ・ソナタあるのみである。内包の大きさによって、これはベートーヴェンのソナタのすぐあとの席を占める。

208
ラモーの無限の貢献は、彼が「和声の感じ方」を発見することができたという点にある。

223
J.S.バッハの『ヴァイオリン協奏曲』アンダンテ楽章の美しさは、ちょっと喩えようもないほどで…

226趣味について
音楽が実在しないときに限って、かならず音楽は「むつかしい」音楽になる。この場合「むつかしい」というのは貧しさを隠すための言葉の衝立にすぎない。音楽に二つはないものだ。

245
…イサーク・アルベニスの名を心にとどめよう。
組曲『イベリア』第3集中の「エル・アルバイシン」に匹敵するほどの曲は、音楽多しといえども、そうあるものではない。あの曲には、カーネーションとブランデーの香りが強く匂うスペインの夕暮れの気分が、まざまざと浮かび上がっている。

265-272『ペレアスとメリザンド』

273フランス音楽の現状
フランス音楽というものは、…明快、エレガンス、単純で自然な朗唱、これにつきますよ。フランス音楽は、まず第一に人を楽しませることを心がけるのですね。クープラン、ラモー、あれが本当のフランス人というものですよ。グルックの野郎がすべてをぶちこわしたのです。…私はグルックと同じくらい我慢のならぬやつを、もう一人知っています。ヴァーグナーです。…

ベルリオーズは例外ですよ。あれは化け物です。あれは音楽家などというものとは全然ちがいますよ。文学および絵画から借りたやり方で、さも音楽らしいものを作ったにすぎないのです。それに、私はベルリオーズに格別フランス的なものは感じません。

(19世紀のフランス音楽を代表しているのは?)
私はマスネを非常に好んでいますよ。マスネは音楽芸術というものの本当の役割をよく解しえた人です。音楽から一切の科学的な飾りものを取り払うことをしなければいけません。音楽は謙虚に人を楽しませることにつとめるべきです。

美は「感じとれるもの」でなければなりませんし、美はわれわれに直接的な悦びを与え、われわれがそれを捉えるのに何らの努力をせずとも、こちらを否応なしに納得させ、あるいはわれわれのうちに忍び込んでしまう、というのでなければいけません。たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチ、たとえばモーツァルト。

※「楽しむ」内容は人による 高尚さのレベルも 楽しめるツボも

279コンセルヴァトワール コンクール漬けの批判→ブログ
和声学の教育は、まったく欠陥だらけのように私は思うのです。はっきりいって、和声学の教室で、私はあんまりたいしたことは勉強しませんでした。(ドビュッシー自身もかつて生徒だった)

コンセルヴァトワールでやっている徒労な、いやそれどころか有害なこと…は、生徒に褒美を与えるやり方(コンクールという形式)です。…非常によく勉強している生徒があるとします。コンクールの日に調子が悪ければもうだめです。コンクールほど馬鹿げたものはありません。

私の本心をいうと、一刻も早くコンセルヴァトワールなど出てしまうのが先決問題です。自分の個性をさぐり発見するには、それがいちばんよろしい。

282
私の考えでは、今まで音楽はまちがった原理に立って安閑としていたんです。あまりにも「書く」ことに心がけすぎたのです。音楽を紙のために作っているのですよ。耳のために作られてこそ音楽なのに。
音楽の書法というものが重視されすぎているのですー書法、方式、技術が。音楽を作ろうとして観念を心の中にさぐる。すると、自分のまわりに観念を探さねばならなくなる。観念を表現してくれそうなテーマを結び合わせ、組み立て、空想のなかでひろげる、ということになる。そしてそういうテーマを展開させ、変形させているうちに、ほかの観念をあらわすような別のテーマにふと行き当たる。こうして形而上学が作られます。だが、そんなものは音楽ではないのですよ。音楽なら、聞く人の耳にごく自然に、すっと入っていくはずです。抽象的な観念を、ややこしい展開の迷路のなかにさぐる必要などないはずです。

身のまわりにある無数の自然のざわめきを聞こうともしないのですね。実に多様な自然の音楽、聞く気さえあればたっぷり自然が与えてくれる音楽、…。

…私に言わせれば、そこに新しい方法があります。けれども、私もようやくかすかにそれを聞き分けたという程度なのです。残されている仕事、これは無限です。そして、それを実現するような人がいたら…これはえらい人ですね。(『コメディア』1909年11月4日)

302
作曲の秘密など、誰に知れましょう。海のざわめき、地平線の曲線、木の葉のあいだを吹きわたる風、小鳥の鋭い啼き声、そういうものがわれわれの心に、ひしめき合う印象を与えます。すると突然、こちらの都合などは少しも頓着なしに、そういう記憶の一つがわれわれのそとに拡がり、音楽言語となって表出するのですよ。音楽言語というものは、それ自らのうちに独特の和声をそなえています。どんなに努力してみても、これ以上に正しい、またこれ以上にいつわりのない和声は、おそらく見つからないでしょう。ただ生まれつき音楽に向いている心だけが、最も美しい発見をかさねるのです。


(ローマ賞について)

ローマ賞をとったか、とっていないかで、才能のあるなしを計ったのだ。…ところが…新しいフランス学派の首領たるサン=サーンスさんは、ローマ賞をとっていないではないか。…この名誉の配当法には、どこやら当てにならぬものがありそう…。

この作曲コンクールの判定は「カンタータ」と呼ばれる作品を対象としている。「カンタータ」というのは、オペラのいちばん通俗的なところを引いた雑種の作品であって、オペラになり損ねたオペラだ。…こんな仕事を対象にして判断を下すのはとても無理なように、私は思う。

あのローマ賞という、誰知らぬ人もない伝統に対して、私は敵意をおぼえます。人間のもっているいちばんつまらない部分、すなわち虚栄心というものに、ローマ賞によってつけこむのですよ。のみならず、ローマ賞は全然何の役にも立ちはしません。



  にほんブログ村 クラシックブログ ピアノへ 

0 件のコメント:

コメントを投稿