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2015年4月30日木曜日

ピアノ演奏と論語「七十而従心所欲、不踰矩」?

一昨日、《「新即物主義」v.s.「19世紀ロマンティシズム」》というタイトルの記事を書いた。青柳いづみこさんの『どこまでがドビュッシー?』という本からの話題である。

タイトルは難しいが、要は、楽譜どおりに几帳面に弾くのか、「ロマンティック」にテンポを揺らしながら大きく表情をつけて弾くか、という主義主張の違いの話であった。

この記事を書きながらふと頭に浮かんだのが、「論語」の中にある次の言葉である。

七十而従心所欲、不踰矩


これは、有名な「子曰く、吾十有五にして学に志す」(15歳で学問を志した)の続きの最後、70歳のところ。「七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)をこえず」と読む。

「七十歳になると思うままに振舞って、それでも道を外れないようになった」という意味である。


なぜこれが頭に浮かんだかというと、ピアノの演奏も似たようなところがあるのではと思ったのだ。つまり、(70歳かどうかは置いておくとして)ピアノの名人になると、思うまま(心のおもむくまま)に弾いて、それでも「音楽の道」を外れない、と読めないこともない。

「矩(のり)」というのは、従うべき自然界の摂理とか人間界の道理といった意味である。

「音楽の道」というのがあるのかどうか分からないが、あるとすれば、ある音の連なりや響きが「音楽」であるかどうかを判定する「基準」みたいなものだろうか?(音楽の神さまだけが知っている??)


『どこまでがドビュッシー?』の元々のテーマは、「音楽というのは、どこまでデフォルメしたらその音楽に聞こえなくなるのか?」ということである。ピアニストについて言えば「どこまで楽譜から自由になれるのか?」、つまり「楽譜に忠実に」からどこまで離れることができるのか、というだ。

例えば、バレンボイムが弾くベートーヴェンの《悲愴》ソナタを考えてみよう。

そこで聴こえてくるのは、間違いなくベートーヴェンの《悲愴》ソナタである。と同時に、その音楽には、バレンボイムの解釈や表現が最大限に盛り込まれていて、聴き手は「バレンボイムの《悲愴》」であることも感じ取っているはずだ。

その感覚が、どことなく「心の欲する所に従って、矩をこえず」に通じるものがあるように思えたのである。


それはさておき…、私のような初心者が弾く《悲愴》はどうなのだろう。と、余興として考えてみた ♪

つまり、その演奏は「ベートーヴェンの《悲愴》」からは相当にかけ離れているはずだ、いや、間違いなくかけ離れている。すると、問題は「どこまで楽譜から自由になれるのか?」ではなく、「どこまで楽譜に近づけるか?」ということになる。

…と、考えるまでもなく、至極当然の結論が見えてしまったので、今日はこの辺で筆を置くことにしたい…(^^;)。



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