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2015年1月14日水曜日

読書メモ「之を楽しむ者に如かず」3

出典:「之を楽しむ者に如かず」(吉田秀和、新潮社、2009)
(数字は引用部分のページ番号、赤字は私のマーク、→のあとは私のコメント)
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249
すばらしい音楽書が二冊出た。一つは『グレン・グールド 演奏術』(ケヴィン・バザーナ著)、もうひとつは『リヒテル』(ブリューノ・モンサンジョン著)である。

→ちょっと読んでみたい本である。とくにグールドのは。

250
(上記『リヒテル』の中にあるリヒテルのグールド評)
「…グレン・グールドは自分のバッハを発見した。…彼の主たる美点は音色面にあると思える。それはまさにバッハに相応しいものだ。…とはいえ、バッハの音楽は私に言わせればもっと深く、もっと厳しいものを要求する。然るにグールドにおいては、いっさいがちょっとばかり輝かしすぎ、外面的すぎる。…」

→一流ピアニストが一流ピアニストを評する。面白い。音色の美しさを認めながら、「グールドのバッハ」を認めながら、リヒテルは「俺のバッハは違う(上だ?)」と言いたげである。

252
(『グレン・グールド 演奏術』の中にあるグールドのリヒテル評)
「演奏家は二種類に分けられる…。自分の演奏する楽器を自分の利益のために利用する人としない人である。前者はリストやパガニーニ…、近年の超人的テクニックの持ち主…。後者は演奏の手法の問題全体を避けて通ろうとする音楽家たち。自分と演奏している曲との間に直接のつながりがあるという幻想をつくり出そうとする音楽家たちで、聴き手が演奏のことより、そのものに没頭できるよう手助けする。…S.リヒテル以上のよい例はないと思う。…」

→やや分かりにくいが、前者はピアノの技術をひけらかす演奏家、後者はピアノや演奏者はむしろ見えなくなって音楽そのものが聴衆に届いて欲しいと願う演奏家、ということのようだ。グールドは、リヒテルこそ後者の代表選手だと言っている。

→一人の聴き手として思うのは、音楽の楽しみ方・聴き方にも同じような二種類があり、それは混在しているのではないか、ということだ。「音楽そのもの」を聴きたいと思う一方で、音色の美しさとかテクニックの素晴らしさも体験したいと思うのだ。その二つが、うまく組み合わさると最高の演奏になるのかもしれない。

255
…アンジェラ・ヒューイットというピアニストも好ましいバッハをひく。…考えたことを正面からはっきりいう人のような演奏をする。

→そうでしょう! ヒューイットのバッハもなかなかいい、と私も思う。

263
私は、音楽の作品には、演奏の数ほどの解釈の余地があり、従って同じ曲でもひく人によってそれぞれ違いが出てくるということを、一方ではその通りだと考え、しかし、その割には、違った演奏というものは少ないものだなと痛感する。つまり、違っているかもしれないが、だからどうだ? と、ききかえしたくなるような演奏が山のようにあると思う。

→音楽の演奏というのは、作曲家が楽譜に表現したものを一方では「忠実に」再現する行為であり、と同時に演奏者自身の「解釈」を表現するものでもある。したがって、吉田秀和さんの言っていることはその通りだと思う。

→そして、つまらない演奏が山ほどあるのも事実かもしれない。本当に優れた演奏家というのは、おそらく一握りの人達だろうし、その人たちが常に会心の演奏をするとは限らないのだから…。(でも、心のどこかで凡庸な・多様な演奏もあっていいのでは? と思ってしまう…)

268
…たとえば安川加寿子流のきれいな小川の水がさらさらと滞りなく、流れていくようなひき方が −− それ以前の誰々の少しゴツゴツした、しかし「音楽の中に何かを求めているようなひき方」に比べて −− 高く評価される…。

→上のリヒテルにあった「音楽そのもの」とか「音楽の中にある何か」とか、表面的なものやテクニックに類するものではない「本質」みたいなものは、存在すると信じたい。その一方で、音楽はある限られた時間の中で鳴り響く音響であり、その音の響き自体を楽しむものである、という一面も否定しがたいものがある。

271
「楽譜の通りひく」といっても、音楽は楽譜の中になんかないのだ。それはチェリビダッケの言う通りである。もっと穏当にいえば、楽譜には音楽を伝えるには相当不十分な記号しか書きこまれていないのである。

→その通りだと思う。そして、次に問うべき・考えるべきことは、「では、音楽(そのもの)はどこにあるのか?」ということだろう。

→楽譜を見ながら弾く、という立場で考えてみると、そうは言っても「楽譜に書かれたものがすべて」という考え方もできる。もちろん、作曲された時代背景とか作曲家自身のことなどは、付帯情報・状況証拠として知っておくべきことかも知れない。

→仮説:「音楽は表現者(表現する演奏家)の中にある」。楽譜(音楽作品)によって触発されて演奏家の中に生まれた「音楽」が、その演奏家の表現力によって実体化される。

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読書メモ「之を楽しむ者に如かず」1
読書メモ「之を楽しむ者に如かず」2

読書メモ:作曲家・曲・演奏家編1


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