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2014年10月15日水曜日

「ロシア・ピアニズムの贈り物」ノート2:重量奏法の秘密

出典:『ロシア・ピアニズムの贈り物』
   (原田 英代 著、みすず書房、2014年7月)


※数字はページNo.
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第三章 名匠ヴィクトル・メルジャーノフ


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メルジャーノフの音楽は19世紀のロシア音楽の特異性である《時間の可塑性》に富んでいる。…「ヴィルトゥオーゾと優れた音楽性だけでなく、彼の音楽は温かみに溢れており、音楽の言葉によって音楽を可塑的(plasticity)に造形する感覚を持ち合わせている。」

141
メルジャーノフが生涯尊敬してやまなかったのはラフマニノフであった。…
音楽の時間的感覚というのは、…ラフマニノフの演奏を特徴づけている音楽の流れの伸縮性、可塑性を意味している。

143
音楽はいったい何を表しているのか。メルジャーノフは、「音楽とは人間のさまざまな心情を吐露するものだ」と言っていた。表現される人間の精神状態には…(※非常に幅広い)…それらを表現しようとしたら、どれだけ豊かな精神性が演奏者に必要とされるのか。

心理的考察を重要視したメルジャーノフは、ありとあらゆる時代の文学を読むことを推奨した。

144
本来、演奏家にもそういった(トルストイにおける描写力のような)微に入り細をうがつ表現が要求される。抽象的な表現でごまかすことをメルジャーノフは嫌った。…

すべてはものの捉え方に起因する。一つの事件を見て、それをどう捉えるか、ある自然に触れて、どう感じるか、ある人に会って、どんな印象をもつか、そういったことが音楽のすべてに表れることを、メルジャーノフから学んだ。

〔3 メルジャーノフの教え〕
149
「音楽は語る」
これがメルジャーノフの信条であった。音楽は彼にとって音による朗読であったのだ。作品によってそれはドラマであったり、抒情詩であったりするのであるが、メルジャーノフはまず、音楽のシンタクス(語のつながり)に目を向けさせた。句点、読点、感嘆符、疑問符などはどこにつくのか、音節と音節のつながりは、順接なのか逆接なのか、あるいは前の節の説明なのか、補足なのか、それともこれから起こる出来事の暗示なのか…。

151
ロシアにおける音楽のもとは《歌》であった。教会では人間の創造物である楽器の演奏は一切許されず、神の創造物である肉声による歌だけが許された。

…メルジャーノフが要求した韻律の発音は、普段会話で耳にするものではなく、レトリック(弁論術)に準ずるものであった。

152
…われわれは、楽譜に書かれた音符をセリフとして語っているという自覚を促されるのである。
…セリフの声に当たるのが、音の響きである。われわれは感情によって千差万別する肉声のような音を出すことを要求される。正確な言葉を語るのみならず、その感情にふさわしいイントネーションで語ることをメルジャーノフは強く要求したのであった。
語る音を出すには、ピアノという楽器に備わっている打楽器的性格を思わせないタッチが必要になる。そのナゾは、ロシアに伝わる《重量奏法》に隠されている。

153「重量奏法」
を一言で説明するならば、手首の弾力性を利用し、腕、肩、背中、ひいては体全体の重みを使って弾く奏法と言える。…身につくまで、…忍耐強いアプローチが必要となる。

…たんに圧力をかけるのとは違う。…弾力性とともに身体の重みを最大限に利用して鍵盤を圧す、とでも言おうか。手首の柔軟性を百パーセント利用するのである。したがって手首はつねに上下振動し、指はもちろん使うのであるが、指、手に重みをかけて音に還元するのである。

指は鍵盤に触れている感覚があるのがよいのだ。そして、指で打つのではなく、そこに重みをかけて音を生み出す。

そのとき、胸の筋肉を使うようにと教授は言う。…(重いグランドピアノを)押そうとすると、腰を落として胸の筋肉、つまり鎖骨のすぐ下の部分を使うであろう。…さらに大きな音が必要なときは、教授は「腰から弾け!」と叫んだものだ。

(練習方法)
最初は一音一音、手首の上下運動を使って音を出す練習…
(手首を上下に振りながら、ゆっくりのテンポで一つ一つに重みをかけていく)

重量奏法のもう一つの秘密は打鍵の着地にある。鍵盤に触れる瞬間は、指先は柔らかくなくてはならないのだ。…柔らかく鍵盤に着地できるようになると、指が鍵盤に吸い込まれていく感じがし始める。…それにしたがって、音も限りなく伸び始めるから不思議だ。

速いパッセージのときは、手首の上下運動はもう視覚ではキャッチできない。手首にはそれほどまでの微妙な振動が残っているのだ。

♪ ギレリスの演奏はお手本中のお手本…→インターネットの動画で

156「ノン・レガート奏法」
「聴いている人が理解できないほどの速度で弾いてはならない」(イグムノフ)

それは切って弾くことが目的なのではなく、一つ一つの音が豊かな響きとともに明瞭に伝わるための奏法で、速いパッセージでも、また歌わせたいメロディでも使われ、聴衆にはつながったメロディ線として、あるいはレガートとして聞こえてくるものである。

ノン・レガート奏法では重量奏法と同じく手首の柔軟な振動が必要不可欠となる。

157「ジュ・ペルレ」(jeu perlé)
「真珠が転がるような音」という意味で、ノン・レガートが最大に繊細にあてがわれたタッチと言えよう。

手首の振動もますます速くなければならず、とびきり柔軟性のある手首が必要となる。第一関節を一回ずつ手前に引っ掻くようにして切るのでは決してない。

158「レガート奏法」
レガートは手を動かさないで弾くという意味ではなく、音がなめらかにつながって聞こえるように音をつなげて弾くという意味…。レガートであるからと言って、手を固めてしまうと、音まで硬い響きになってしまう。

メルジャーノフは必要以上に動くことを諌めながら、目に見えない身体の内部での振動を忘れないようにと忠告した。どこにも流れを止める《関所》のない柔軟な関節が麗しいレガートを可能にするのである。(手首も手も腕も方も肘も極力柔らかくなっていなければならない)

159「ペダルの芸術」
メルジャーノフは決して真ん中のペダルを使わなかった。…同じような効果を右のペダルで出すことができたからである。

伴奏音が濁らないように留意しながら旋律線を歌わせるときに重宝する…1/2ペダル、一つのスラーの中に非和声音が混じっているメロディ線を一つの切れない線にすることを可能にする1/4ペダル、またターナーの絵画さながらに、たなびく雲を背景に主体を浮き上がらせることも夢ではない1/8ペダル等々。

ラフマニノフが「ペダルはピアノの魂とよばれていた」と記しているように、ペダルの芸術はピアノ演奏の肝心要なのである。

メルジャーノフは、ヴィブラートペダルと呼ばれる技法、…を好まなかった。ペダルでディミヌエンドをかけるときは、いったんペダルを踏んだ足を徐々に上げていったものだ。

160
「ファンタジーレンしなさい!」(想像しなさい)

〔5 スタニスラフスキーのすすめ — 演劇から学べること〕
168
「われわれがいう役を生きる芸術では、役はそのつど新たに生き直され、新たに血肉化されなければならない」(型にはまる、紋切り型になることへの警告)

「そういう(形式で示す)芸術は、美しいが、深みに欠ける。派手ではあるが力強くはない。そこでは内容より形式に面白みがあり、こころにうったえかけるより、耳と目に作用する。そのためこの芸術は人を揺さぶるよりむしろ感心させるのだ。」

173
演奏家にとって身体の硬直は命取りになる。「ピアノを弾くという行為は、心地よいものでなければならない。もし心地よさを妨げるなにかがあるとしたら、それは間違っている奏法だと思いなさい」と、メルジャーノフはいつも言ったものだ。

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