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2014年6月12日木曜日

「音楽と社会」:音楽・現代音楽・社会…

読書メモ: 『バレンボイム/サイード 音楽と社会』

これから数回にわたって、『音楽と社会』の読書メモを書くつもりである。だが、何といっても世界的な音楽家と知識人の対談であり、テーマも難しいので、私のレベルで感じたことが中心となる。内容を網羅していないこと、消化不良であるところはご容赦のほどを…。

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1998.10.8 ニューヨークでの対談(p.37~84)から
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■ 音楽とは


バレンボイムが「音楽とは」という問いに対して、よく引用するのが、「音楽とは鳴り響く大気だ」というフェルッチョ・ブゾーニの言葉である。「音楽について言われている他のことはすべて、音楽が人びとにひき起こすさまざまな反応について語っている」にすぎないと言う。

また、彼は「サウンドの現象学」という言葉もよく使う。音楽とは、物理的な音として現出したものでしかない、ということだ。したがって、音楽は「沈黙(サイレンス)から始まり、沈黙に終わる」ものであり、「中断できない」ものであり、「一回限り」のもの(一回性)である。

そして、バレンボイムはこう続ける。

「音を通じて音楽を作る技術は、僕の考えでは錯覚を作る技術だ。」

「表記されたもの(楽譜)への忠実さの問題なんて、ほんとうは存在しないのさ。」

つまり、「曲とは、それを実際にサウンドにしたときに現れるもの」であり、極端な言い方をすれば、音響という物理現象自体ということになる。その実際に聴こえる音は、会場の音響などによっても影響されるが、それも含めての音が「曲」自体という考え方である。「楽譜は曲じゃない。」

そのため、必要な音がちゃんと聴こえる「可聴性」や、より明確に聴こえる「透明性」が重要な要素になってくる。例えばオーケストラの場合、同じクレッシェンドの指示でも、楽器によってそのタイミングや強度を変えないと、大きな音の出る楽器によって他の音が覆い隠されてしまうことになる。

■ 現代音楽について


サイードの言葉。「テオドール・アドルノ(ドイツの哲学者、社会学者、音楽評論家、作曲家)が言うには、シェーンベルクのような人たちの時代にきて、すべての音が平等になってしまうと、音楽を聴くことがとても難しくなる。」その理由のひとつに「試みでありすぎるから」ということをあげているが、これはとてもよく分かる。「音楽」(芸術作品)と「音楽の実験」(実験音楽)は別物だと思う。

そして、そこに欠けているものとして、サイードは「ベートーヴェンのソナタにあるドラマや対比」と「ワーグナーの作品にある展開(肯定~否定のようなプロセス)」をあげている。

さらに、バレンボイムは和声について次のように述べている。

「和声の緊張の積み上げとその解放という、調性音楽には欠かすことのできない要素は、十二音音楽の登場とともに、ほぼ終わってしまった。」

その一方で、「アーティキュレーション」がとても強くなって、シークエンスの積み重ねで緊張を高めるようなことが行われるようになった。

バレンボイムが現代音楽をよく取り上げるのは、「慣れ親しむことによって理解がすすむ」という側面があると考えていることも理由のひとつである。

「理解」とは、演奏する側と聴く側の両方について言っているようだ。演奏する側でいえば、初期の演奏は、曲(の構造)が理解されていないため「可聴性」や「透明性」に問題があったと思われるし、演奏技術もこなれていなかったであろう。聴く側からいえば、当然、耳慣れない音の流れや構成や響きは、未知のものを恐れるという本能的な拒否感も含めて、快く受容されるまでには時間と経験が必要になるのだろう。

個人的には、現代音楽にも将来「古典的名曲」となるであろう作品もあるはずなので、それを同時代人として、ぜひ聴いて楽しみたいと思っている。そのためには、聴く側の理解と受容と、もしかすると進化?のようなものが必要なのかもしれない。

■ 音楽と社会(問いかけ?)


バレンボイム:「音楽には社会的な目的があるのだろうか。…慰みや娯楽を提供することなのか、それとも演奏者や聴衆の平穏をかきみだすような問いを投げかけることなのか。」

これは、例えば心地よいポピュラー音楽から「哲学的」で難解な現代音楽を両極端とするものさしがあると仮定すると、さまざまな音楽はその中間のどこかに位置づけられるのかもしれない。どちらか一方ということではないと思う。

「新しい音楽を演奏するとき、はじめに要求されるのは明快さだ。面白く聴けて、テクスチャに透明性があり、強弱の関係がじゅうぶんに解決されていること…。」これは分かりやすい。

現代(文明)の問題というような話の中で、音楽に関して次のようなやりとりがある。

サイード:「古典音楽の研究やソナタや交響曲の形式を理解するための訓練は、現代の若い音楽家たちのあいだでは姿を消しはじめている。それに代わって浸透しているのは、基盤を欠いた折衷主義のようなものだ。『ベートーヴェンは○○や××をやる作曲家だ』といった言い方に表れているものだ。」

バレンボイム:「それはスローガンだね。僕はスローガンやテレビ言語に対してはっきりと哲学的な批判をもっている。そういうものは内容と時間の関係を考慮していないからだ。つまり、ある一定の内容には、一定の長さの時間が必要であり、それは短縮できないものなのだ。『ベートーヴェンの楽譜のエッセンスを1分間で教えてくれ』と要求するようなもの(不可能)なのだ。」

音楽を本当に理解するには難しい時代・社会環境になりつつあるのかもしれない。


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