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2014年3月8日土曜日

「芸術を創る脳」:Ⅱ.なぜ将棋は深遠なのか

読書メモ 「芸術を創る脳」 美・言語・人間性をめぐる対話

Ⅱ.なぜ将棋は深遠なのか(羽生善治)

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※作曲家・指揮者の曽我大介氏との対談。対談者プロフィールは下記参照。
 →お薦めの本「芸術を創る脳」:音楽・将棋・マジック・絵画

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●抜き書き(番号はページ)

68
羽生:将棋の基本というか土台のようなものができるのは、年齢的にはかなり小さいときであることは間違いないように思います。
酒井:母語(最初に身につけた言語→※将棋や音楽も?)を含めて、十代はじめまでに覚えた言語は、自分の思考の一部に組み込まれている感じです。

71
酒井:…十代以降にはじめると将棋や外国語が覚えられなくなるということではありません。論理的な思考力を過信するあまり、理にかなった自然な感覚を軽視するようではいけないということです。

102
酒井:それは科学の研究でも同じです。研究の基礎がどれだけしっかりしているかということよりも、どれだけフォロワー(同じテーマに追随する人)がいるかという判断基準で評価されがちです。
(論文の引用件数のデータがある)

118
酒井:「話せば分かる」というのは、同じ経験や価値観を共有する場合にのみ成立することです。…言葉で伝えられることは、考えていることのごく一部なので…

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●感想など

最初の羽生さんの話は、「大人(から)のピアノ練習法」を模索している身からすると、ややつらい話かもしれない。

母語と同じように、幼少時~十代くらいに覚えたもの(言語、将棋、音楽、…)は、「自分の思考の一部に組み込まれている」、という話である。

たぶん、音楽やピアノ(演奏)に関しても小さい頃からやっている人は、感覚的にも技能的にも、自分の一部と感じられるほどに「身につく」部分は確かにあるだろう。酒井氏が「覚えられなくなるわけではない」と、救いの手を差し伸べてはいるが…。

しかし、「理にかなった自然な感覚」というのは、大人も持っているはずだし、大人になって初めて持つことのできる感覚というものもあるだろう。そういう意味では、必ずしも悲観する必要はないと思う。


もう一つ、酒井氏の指摘している「フォロワーで評価されがち」という話は、ネット時代に生きる者としては常に心すべき問題だと思う。ネットの中で、その中にあるデータだけで、人の嗜好を判断したり、妙なサジェスチョンをしたり、余計なお世話をしたり、とネット・サービスの挙動に違和感を覚えることも多い。ところが、人間はいつの間にかそれに慣らされてしまう。

ネットで本を買って、そのサイトから「この本もきっと気に入りますよ」と薦められるくらいなら罪は軽いが、研究や論文の価値がその引用(フォロワー)数で判断されることになれば、それは大きな問題だと思われる。

音楽の世界も、しっかり自分自身の判断基準を持ちたいものだと思う。(佐村河内事件のこともあるし…)


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