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2014年2月21日金曜日

「バレンボイム音楽論」:私はバッハで育った

『バレンボイム音楽論』 読書メモ(8)

  ※目次・紹介は→本「バレンボイム音楽論」:紹介

第2部「変奏曲」 【私はバッハで育った】

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●抜き書き(数字はページ番号)

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ピアノ演奏の技術には巧妙なトリックが含まれている。ピアノではレガートのイリュージョンを生み出すことはできるが、実際にほんもののレガートを演奏することはできない。
ピアノ演奏でもっとも重要なのは音と音とのシンフォニックな関係である。曲のポリフォニックなテクスチャー[音楽上の構成要素]のさまざまな脈絡を、それがすべて聞き取れて、三次元的な効果を生み出すようはっきりと演奏しないかぎり、音楽は興味深いものにはなりえない
ちょうど絵において、前景に浮き出してくるもの、遠景に遠ざかるものがあって、絵は平板で一次元のものであるにもかかわらず、見る人には、あるものが別のものより近くにあると感じられるようなものである。

176
…だが、テンポはけっして独立したものではない!テンポは耳に聞こえない!聴こえるのは音楽の中身だけである。あらゆる種類の音楽理論の基礎となるのは可聴性である。バッハのすべての前奏曲やフーガのあらゆるフレーズにあてはまる理論を展開することもできるだろうが、もし、その理論が、演奏のさいに耳で実感できないのなら、どんな理論も無意味である。

177
バッハの音楽では、リズムと和声がひじょうに強く結びついている。この二つの要素のあいだに、おそらく他の作曲家にはみられないような共生関係が存在する。おそらくこれが、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンに演劇的な特質があるのと同じように、バッハの叙事詩的な特質とよべるものなのかもしれない。この叙事詩的な特質のおかげで、バッハの音楽ではすべてが一体となっている。そのすばらしい例が《平均律クラヴィーア曲集第1巻》の嬰ハ調のフーガで、ひじょうに力強いリズム感をもつ舞曲を思わせる曲である。
178
《平均律クラヴィーア曲集》は先行するすべての音楽の集大成であるのみならず、音楽の行く手をもさし示している。

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●感想など

ピアノ演奏でもっとも重要なのは音と音とのシンフォニックな関係である」ということは、頭では理解できても、それを演奏で表現することは至難の技だと思う。せめて、そういう演奏を聴き取れるようになりたい。

可聴性」、重要なキーワードである。どんなに立派な理論を口で言っても、最終的には聴き手側の「耳で実感できないのなら」意味がない。そして、可聴性を実現するには、各声部がクリアに独立して聴こえなくてはならないし、その関係性に音楽的な必然性が必要である。

やはり、《平均律クラヴィーア曲集》はピアノ音楽の「旧約聖書」なのだろう。



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